日本の美術界って、見たものを見たままに描く技術(写実性)を超重要視するスタンスが未だに色濃く残っています。重要視するだけなら良いことなんだけれど、それが唯一無二の正義みたいな風潮すらある。
所謂デッサン至上主義です。
美術界だけでなくアートに関わりのない一般の人も、写実的であるかどうかが、絵がうまいか否かの尺度になっている。アート後進国あるあるのような気がします。でもそれが全てではないと思うんです。写実性以外にどれくらい多くの視点を持って絵を観賞する事ができるかが、その人のアートリテラシーだと思います。
デッサンがうまい=絵がうまいなのか
目に見えるものをそのままの通りに描くって凄いことだけど、それが絵の優劣を測る絶対的な基準にはなり得ません。むしろ判断基準をその一つしか持ち合わせていないというのは、アートに対して認識が浅すぎる。
誤解を恐れずに極端なことを言うと、
デッサンがうまい=絵がうまい
ではなく、
デッサンがうまい=デッサンがうまい
なんだとぼくは思っています。
デッサンは筋トレに似ている
デッサンは大切です。そして筋トレに似ていると思います。デッサンをすることで基礎体力が身に付くっていうよく聞く話ではなくて(もちろんそれもあるけれど)、概念として似ているということです。
例えば野球選手が筋トレをするとします。山田哲人のようにトリプルスリーを達成するには、恐らく筋トレは欠かせません。しかし理想の肉体を手に入れたとしてもまったく打てなかったら意味がない。
だから、マッチョ=野球がうまいとはならないですよね。
マッチョ=マッチョです。
打つためには筋トレは必要だけど筋トレ自体が目的ではないということ。あくまで野球としてのアウトプットが大切。それと似てるなと思うわけです。
ただ、ここで触れておくべきなのが、デッサンは写実性を追求すればスーパーリアリズムっていうひとつのジャンルとして立派にアートシーンに市民権を得ているということです。つまりデッサンがうまい=凄いは成立する。
で、これ筋トレもまさに同じで、活躍できないマッチョな野球選手は野球選手としては意味がないけれど、ボディービルダーとして活躍できるレベルならばそこには価値がある。
マッチョ=野球がうまいにはならない。あくまでマッチョ=マッチョだけれど、フィールドによってはマッチョ=凄いになる可能性はあるということです。
欧米のアートシーンではどうか
欧米のアートシーンでは、写実的な作品ではなく、アブストラクトな作品の方が評価されている節があります。もちろんスーパーリアリズムも評価されますが。
もう少し正確に言うと、アーティストの人間性、発言、作品のコンセプト、作品が社会に与えた影響や概念をトータルで評価されるのが欧米のアートシーンのルールです。だからやっぱりデッサンとして描かれたものはデッサンでしかない。作品の前後の文脈が薄いからです。
デッサン肯定派の意見として、デッサンもできないのに抽象画に走るやつは嫌いだっていう意見があります。これはきっと言語でいうところの文法を学ぶ感覚に近いものがあるため、表現をするための最低条件として、必ずデッサンを練習する必要がある、という意味だとぼくは勝手に解釈してます。
で実は、その考え方はアニメーションをやる上では結構大切だなと感じます。デッサンやアナトミー(美術解剖学)、パースペクティブを一通り勉強することで、空想の風景やキャラクターにも説得力が出るからです。
ぼくの見解
ぼくはデッサンを軽視しているわけではありません。デッサンは大切だし、極めればそれ単体でアートとして成立する事もある。ただそれが唯一無二の正義ではない。というのがぼくの意見です。
写実性が高ければ高いほど凄いというフィールドはあるけれど、それはたくさんあるフィールドの中のひとつの話だよ、っていう。筋肉が自分のパフォーマンスを上げるための方法のひとつにすぎない分野もあれば、それを極めること自体が正義だという分野もあるよ、っていう。
カルアーツのキャラクターアニメーション科に限った話でいうと、ぼくらが絵を見せ合って皆が食い付くのは写実的な絵ではありません。満場一致でぼくらが食い付くのは、個性が強くてwildでcrazyな絵です。じゃあ、めちゃくちゃな絵を描けば良いのかと言うとそうではなくて、画面の中で何が起こっているのかが分かる説得力が同時に必要で、そこが難しくて面白いところだと思います。
だから説得力という意味では、やっぱり見たまま描くという力は大切で、ぼく自身ももっとやらなければと思っています。