昔は指輪なんてつけなかったけれど、去年辺りからつけるようになった。別に高級なやつではなくて、自分が作ったやつや作ってもらったものをつけている。
理由はぼくが感じているいくつかのカッコよさを、ささやかに主張したいからである。
好きなものを知ってるのってカッコいい
まず、自分が好きなものを自分で作ってしまうことがカッコいいと思っている。これは、自分が好きなものをっていう部分が結構ミソだ。
なにかを自分で作る行為やそのスキルがあることはもちろん尊敬の対象なのだけれど、自分が好きなものを作るためには、最初に自分が好きなものを知っていなければいけない。そこにカッコ良さがある。
スキルがあっても、好きなものがない人は多い。
自分が好きなものを知ってる人ってカッコいいでしょ。それを自分で作っちゃう人ってイケてるでしょ。っていうこと。
新しい可能性を見つけるのがカッコいい
また、ぼくの指輪は廃材を利用して作っていて、例えばいらなくなったスプーンをひん曲げて作っているのだけれど、スプーンを指輪にするのがカッコいいと思っている。
面倒くさい言い方をすると、その役目を終えようとしているものの中に可能性を見つけてそれを別のプロダクトに昇華させる行為がカッコいいと思っている。
そして単純に、デザイン含めぼくは自分で作った指輪が好きなのである。だからつけている。
主張とファッション
ぼくが高校生の頃は男がチャラチャラとアクセサリーをつけているとダセーなと思っていた。当時からぼくは頑固で、自分にとって異質なものを受け入れる許容がとても狭かった。
でもニューヨークで生活してみて、異質なもの=自分と違うものだけに囲まれ、自分と違うものを一片の曇りもなく肯定する人と出会い、理由が伴うファッションの存在を知り、それらを毎日自分の目で見て、考え方が変わった。
主張があるファッションはカッコいい、服もアクセサリーも髪型も靴も、そこに主張がある人はカッコ良いと気が付いた。
高級なものを所持するだけのファッションより、頭の天辺から足の爪先までゴリゴリにパンクロックな格好で、寝ても覚めてもギターやバンドの話をしている人の方が気持ちが良い。実際にすごい勢いで話続けられたら鬱陶しいけれど。
自分で指輪を作る意味
ファッションやアクセサリーには単純な趣味嗜好、好きなもの嫌いなものだけでなく、その人の信仰や、ジェンダーアイデンティティも含まれる。
人が身に付けるものにはそういう力があると気が付いてから、指輪をつけている男性を意味なく否定的な目で見ることはなくなったし、指輪をつけている人に興味が湧くようにもなった。
街でも電車でも考える。この人はなぜ指輪をはめているのだろか。
例えば、時計はファッション要素がかなり強いものの時間を見るという実用性が一応あるし、スマートウォッチなるものであれば時間だけでなくメッセージをチェックしたりもできる。
でも今のところ指輪の実用性は全くなく、無理やりメリケンサックを指輪と見なせば多少の実用性はあるものの、打撃攻撃の威力を上げる必要がない日常であればやはり実用性は皆無だ。
となると、ますます人が指輪を付ける理由が気になる。そこに面白さを見いだす。
そんなことを考えていたら、ぼくはぼくの正義と主張のもとに自分で指輪を作るようになっていた。
自分で指輪を作り、それを身に付けることで、自分の価値観や趣向、もしくは好きと嫌いの境界線を確かめている。その結果、自分にとってのカッコ良さの輪郭が見えたんだと思う。
TPOに反した格好をしている人がいれば、もしかしたらそれは無知なのではなく主張なのかもしれない。
なにあの人、あんな格好して頭おかしいんじゃない?
とヒソヒソ言うのではなく、その背景に何があるのかを想像してみる心の余裕がある人もまた、カッコいいと思うのである。