くっきりした二重に綺麗に通った鼻筋、身長は170㎝近く、仕事もバッキバキにこなすキャリアウーマン。元同僚であるHさん、彼女はまさに才色兼備そのものである。
非の打ち所がないHさんですが、その容姿とは相反して、彼女が描く絵はとてつもなくブサイクです。
迷いのない太刀筋で、人間のような何かが気持ち良く描かれています。タイトルは『クラウチングスタートする人』だそうです。タイトルで強引に持っていくタイプの作品でしょうか。
この自分の絵を見てどう思う?
『うーん、関節の描き方を教えてくれれば、ほぼ完成すると思う』
予想の斜め上の回答でした。彼女はぼくが思っているよりも遥か先にいる。関節が描けるようになれば、彼女はもうほぼアーティストとして完成するのです。
確かによくよく『クラウチングスタートする人』を見てみると、目は正面から、他のパーツは真横から見た状態で表現されている。それぞれのモチーフの形が最も分かりやすい状態で描写されているこの技法は、まさにエジプト壁画のオマージュともとれます。
彼女は一周回ってこの技法に辿り着いたのでしょうか。もしかしたらぼくはとんでもないモンスターと対峙しているのかもしれない。
絵は文脈で化ける
でもこの絵が凄いというのは、あながち間違いではないと思うのです。
彼女の容姿とその絵のビジュアルのギャップがえげつなさすぎて、事実この絵をネタに飲み会は異常な盛り上がりをみせたのです。
写実的にクラウチングスタートを見た場合、彼女のスキルがガバガバなのは疑う余地はないけれど、
肝心なことは『この絵面白いよね』と受け入れられる文脈や居場所を見つけてあげることで、それができれば絵もアーティストも評価されます。
欧米のアートシーンでは、作品が受け入れられる必然性を作り出すのもアーティストが当然行うべき仕事だと認識されていて、村上隆も“価値を生むのは才能よりサブタイトル”だと言っています。
ゴッホにしてもピカソにしてもデュシャンにしてもウォーホールにしても、彼らを説明する文脈であるサブタイトル(副題)のが方が重要だと思いませんか。(中略)絵としての才能で言えばボナールの方がずっとすばらしいのに、なぜかゴッホが高い評価を受けている理由は、おそらく「端的に説明できる物語」があるからではないでしょうか。「作品がよくなくてもそこにドラマが付加されれば、ゴッホのように生き残ることができる」というしかけが、現代美術の発明なのです。
偉い人に怒られるのを承知で彼女の作品を無理やり現代美術の文脈に乗せるとすると、クラウチングスタートの価値は、
美人なのにブス(絵が)
というサブタイトルにあるのかもしれません。
異論は認める。
芸術作品の価値とは何なのかを知りたい人はこちらをどうぞ。芸術家=起業家という視点で展開されるこの本は、ビジネス書としても読み応えあります。